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絵や対象そのものを動かすのではなく、光の明滅を制御して影をアニメートすることで静止した対象が見事になめらかに動き出す。まさに逆転の発想による一連のライトイリュージョンアート。19世紀、パラパラ漫画やゾートロープがアニメーションと映像文化の始まりならば、山内哲也による一連のひかりと影を応用した錯視芸術の取り組みは、複雑化した昨今の映像テクノロジーと文化を我々の前にリバースエンジニアリングして見せてくれる。映画やテレビなどにより過剰に供給されることで逆に驚きや新鮮さが麻痺してしまった、コマーシャルな映像文明の忘れた何かに気づかせてくれる試みにほかならない。
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山内哲也ギャラリーへ
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ひんやりとしたギャラリーに敷かれた白布団の上に、ぼんやりと息づく電球(光=生命?)。壁に配線された系図は、いくつか球切れ息絶えている。樟脳臭いガーゼ群と氏素性のインスタレーション。欠落しても入れ替わり埋まりふさがり、互いに密着しあう生命体。「交換」「接着」「治癒」「colony」と一連のキーワードがまるで、連綿とつながるヒトゲノム解析の糸口を探しているような作間の仕事は、互いに接着する細胞レベルへのまなざしから人間個々の関係、家族や血族、地域社会のしがらみ、国単位の結びつきや対立に至る俯瞰したまなざしへと時空を貫く。
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作間敏宏ギャラリーへ
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地衣類やキクラゲ、ナメコ、菌類の胞子嚢、あるいはウミウシ、密生した椎茸、干からびそうなコケ、時として透きとおる羽衣。岡野優の絞り出す有機的な形態と色彩は、あたかも生物図鑑の様相を呈する。京都、東京、桐生を拠点とし、しばしば海外へも飛び回るその身の軽やかさと、染め上げるテキスタイルのしなやかさは、一体となって絡み合っているようだ。彼女の創作は、記憶の中にある実感する自然を希求しながら、プラスティックなポリエステルの加工性を自家薬籠中のものとして、変幻自在に可視化し提示する行為といえよう。それは、ちょっとこじつけがましいたとえだが、解毒不能な人工物を岡野という感性のバイオテクノロジーフィルターで分解濾過し、有機なものに還元して、もう一度、生き返らせてみせているように思える。
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巨大植物の国「アネハネハ国」は、なぜか懐かしい。柔らかく優しい曲面で構成された建造物や植物のフォルムも特徴的だが、なんといってもその鮮やかな中間色「アネハカラー」とでもいうのが一番の、独特な深みをもった色彩こそ、この国を魅力的なエキゾチシズムで覆う重要な要素になっている。また、作品にもりこまれた物語は植物生態学や博物学的な文化人類学とでもいえるもので、独立したどこか遠くて近い、知らない国の人々の暮らしをかいま見せている。それにしても色彩感の貧しい空間が多い日本の現状に、がっかりする日常で「アネハネハ国」は視覚と空想のリゾートたりうる。
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アメリカ育ちのデボラは、「私のやりたいことはアートエンターテイメント!バジェットはいくらあっても足りない」と民家を居心地よく改装した群馬のスタジオでシャンパンを片手に言い放つ。お好み焼き料理番組にお見合いパーティーをからめ、文化ギャップとコミュニケーションギャップを主題にした展覧芝居『天使の庭』を仕掛ける。その副題にセレンディピティーとあるのは、見落としがちな日常や人間同士の関係の中から、きらめく何かに気がつき新しい価値を紡ぎ出す感性こそ大事という意味なのだろう。彼女がいいたいのはきっと「もっと感じて、わかるように発信してちょうだい」という我々に向けての痛烈なメッセージ。芸術と娯楽の幸せな融合を目指し、日本文化にグローバルでクリエイティブな風穴をあけようとしている。次回の映画作りにも期待したい。
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美術大学の実技課題はおもしろい。基礎造形の練習問題が学生の一生の制作テーマに結びつく例がある。「手動による回転運動を用いた造形物を作りなさい」という課題を体験したことから、田中真聡の現在の制作テーマは決まったという。私自身も一年生の時「立方体を多数組み合わせて増殖するイメージを構成しなさい」という課題から、逆発想して内側にイメージが繰り返すミラーボックスを発案し現在のライトアートオブジェの世界にはまりこんでしまったのだった。当り前の話であるが課題への取り組みと解答は一人一人異なっていればいるほどおもしろいのが美術だ。いや、ちがっていなければならないのである。課題であった「動き」に正面から取り組んだ田中真聡は、「動き」の中に「時間、重力、空気、リズム」を発見して以降、それらをテーマとして創作するようになった。それは形のないモノに形を与え可視化する、言ってみれば刻々と変化する現実の雲をつかみ取り定着させるような仕事なのだ。モビールが基本であるが、雲の変容のように永遠にゆらゆらと柔軟に変化しつつ、観る側の視覚や感覚のバランスをくすぐってやまない、そんな造形を彼は目指しているのだろう。
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ディスプレイデザイナーの経験を持つ鉄筋彫刻家、早坂かおりの細腕は工事現場でよく見かける結構ゴツイ鉄筋をぐにゃぐにゃと意のままに加工してしまう。彼女に言わせると鉄筋や鉄板は「ダイレクトに形を扱える面倒臭くない素材」なのだそうだ。私にはそのことが大きな驚 きである。なぜなら私は学生時代、工芸科鋳金専攻で金属加工の煩雑さに辟易と し、もっと直接的なプラスティックアートの方へ逃げ出した経験を持つからである。彼女にとって鉄材は、イメージした線を比較的滞留なく現実の形態へと移行できる実に扱いやすい、自由度の高い素材ということになる。
アムトラックでアメリカ一周の一人旅をこなし、時折ぶらりとニューヨークへ出かけ、現地の彫刻家コロニーにとけ込んで仕事をしてきたりする早坂は、持って回った言い方や生き方とは縁遠く、必然的にストレートな素材と表現を選ぶことになったのだろう。ちょっと考えても鉄材で自由闊達、なおかつ柔らかい曲線を三次元に組み合わせねじ伏せるには、三乗倍の注意と労力が必要と想像できるのに、早坂かおりのあっさりとした提示は、普段「鉄は重厚長大」「人生は大変」と思いこんでいる我々の出鼻をくじくのに十分なインパクトを持っている。
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造形作家でスペースデザイナーでもある志村雄逸は、極めて緻密な設計のキネティックアートの装置群をつくる。それらの装置は、多くの場合特徴的なゆったりとした動きを内蔵している。それは造形自体の構造的な動きだったり、光そのものを制御して演出している動きだったりするが、志村はそのことで「風」「光」「揺らぎ」などの自然現象を表出しようと試みている。
ところが一方では、計画された装置の的確な物質感や構造感とはうらはらに、ファジーな現象をも意図している部分が見て取れる。作品に現れるメカニカルな形態と有機的な形態の両極を持ったイメージは、あたかも遺伝子が究極のデジタルビットの集合体にも似た構造であるという事に対する、我々の畏敬と畏怖の綯い交ぜになった感情とよく似ている。
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鴻池朋子は、不思議な作家だ。東京芸大日本画科を卒業の後、レイジースーザンでファーニチュアーのデザイナー。80年代から90年代前半にかけ、家具にキャラクター性を付加させたような作品を発表。近年は、ソフトスカルプチャーとして「FANTA」など完全にオブジェとしての作品群を手がけている。
本人は、自身の幼児性や未成熟性に向き合うことを強調しているが、その裏にしたたかな才能が見える。勢いがある。しなやかである。大きく伸びやかである。コミックやファンタジーに取材した玩具的フォルムがこんなに生き生きとパワフルなさまは、ただ一言、呆気にとられる。鴻池は、いたって頼もしい、強い作家だと思う。だいいち表現する楽しさをよく知っている。表現する厳しさもわかっている。表現の冒険も大好きだ。なにより、表現の輝きを忘れない。見ていて晴れ晴れとするめずらしい作家だ。
「気先、梨にかぶりつく心、大木を切り倒す心、鍔もとへ切り込め。」小池魚心
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眞田岳彦は現在37才。ISSEY MIYAKE勤務ののちイギリスに渡りリチャードデーコンのアトリエで現代美術修行、さらに北極グリーンランドに滞在しイヌイットと生活を共にした、というめずらしい経歴の持ち主である。彼の作品が時に軽やかな素材の整合性や合理性を帯びるのは第一線デザイナーとしての経験故であろう。また逆に、脱脂しきれていないような獣毛を荒々しくフェルトに積層し、臭うような質感十分な素材を、これまた北極圏に生息する獣のスケールで圧倒的な提示をするのは、デーコンとの出会いと北極圏の厳しい生活体験とによってもたらされたモノと推測できる。
彼の作り出す衣服?オブジェは、それを見るものに衣服を身にまとうこと、またその纏う身体とは何か、という問いかけとなって跳ね返えってくる。多くの場合トリッキーでトポロジカルな構造を持つその造形は、さらにわれわれに他者とのコミュニケーションとは何か、同時に自分自身とのコミュニケーションとは何か、という入れ子になった問題を突きつけてくる。それは単なる衣服という存在を越えアートそのものとして我々の前に在る。
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